在学生と卒業生との交流会
      

21世紀は「女性の世紀」とも言われていますが、単なる掛声で終わらせないために、在学生の皆さんが将来名実ともに実力を発揮し、社会に貢献出来ることを、私たち佐保会員は常々願っています。そこで私達は、いろいろな分野で活躍されている卒業生を皆さんに紹介し、先輩の歩んでこられた道程をお話ししていただく機会を持ちたいと考え「在学生と卒業生の交流会」を開くことにしました。 この会では、講演の他に先輩と後輩が様々な問題について親しく語り合う懇親会も持ちたいと考えております。

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2013 渡邉紋子氏、太田明日香氏、松村美里氏
「奈良女での積極的な学び”のすすめ 〜マイナスをプラスにかえる力〜」

2012 中道牧子氏、平井珠生氏、阿南愛子氏
「ものづくりに女性の感性を生かす」

2011 針多暁子氏、栃原悠希氏
若き卒業生による“奈良女での積極的な学び”のすすめ

2010 中澤久美子氏、岩花薫氏
  若き卒業生による「大学での学び」のすすめ

2008 菅沼孝之氏
「奈良の花、見どき見どころ」

No.11 藤野千代氏
「奈良女子大学活用のススメ」

No.10 高岡真佐子氏
「Multiple Choiceのライフワーク」−仕事も結婚も子育ても、そして勉強もと考えているあなたへ−

No.09 津田美也子氏、橋本陽江氏、東実千代氏
  フォーラム「『大学で得たもの・得たいもの』−貴女のキャリアアップのために−」

No.08 山崎登美子氏
「『地球市民』を意識した時見えてくるもの−NGOも係わって15年−」

No.07 六本順子氏
「ジャンルを超えた仕事で得たもの −人財産築きました−」

No.06 奥田靖子氏
「企業での材料開発に携わって−女性をめぐる環境について−」

No.05 桑名好恵氏
「企業の技術開発に取り組んで−女性企業人の歩み−」

No.04 上野祐子氏
「ビジネスはおもしろい−起業のススメ、ビジネスのススメ−」

No.03 姫岡とし子氏
「私とジェンダーの歴史学」

No.02 広谷浩子氏
「サルがいて、ヒトがいて −サル学と私−」

No.01 細川彰子氏
「身体が語るこころの言葉 −診察の日々の中から−」
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在学生と卒業生との集いNo.11 平成17年5月13日開催


『奈良女子大学活用のススメ』
 藤野千代氏 (奈良女子大学 社会連携センター 特任准教授)

1964生
奈良女子大学 理学部卒  (1987)
奈良女子大学 博士(理学)(1998)
<略歴>
三菱電機 材料研究所(1987〜)(現 先端技術総合研究所)
奈良女子大学 産学官連携推進室 (2003〜)
<専門>
磁気工学・物性、シミュレーション 技術(電磁気、構造、熱)

<講演内容>
ご紹介ありがとうございました。お忙しいところお集まりいただきましてありがとうございます。私は、今までの「卒業生と在校生の集い」でお話されてこられた方のように、別に何かを成し遂げたわけでも、何かの先駆的なことをしたわけでもございませんが、ただこの大学において皆さんと非常に近い位置にいるということで、今日の機会に頭の片隅にとどめていただければうれしいです。

まず、皆さんが一番に思われるのは「あなたって誰よ」ということなのですが、家族は4人。伊丹市に住んでおります。実家は京都市で、1983年に物理学科(現在の物理科学科)に入学し、卒業後は三菱電機株式__に就職しました。ちょうど男女雇用機会均等法が制定された年ですので、企業における女性の求人比率が格段に高くなった非常に幸運な年です。入社1年間は、自分がやっていることが何に結びついて、何のためにして、現在どの位置にいるのか、何が次の準備として必要かなど、仕事に対する概略、青写真のようなものが全く見えず、本当に社会人としてやっていけるのかずいぶん戸惑ったものです。2年目以降、この戸惑い状態から得たことは「悩むよりもまず手足を動かして行動してみる」「わからなかったら聞く」というあたりまえのことです。「論よりRUN」ですね。机上ではわかっていることですが、これを実行するには案外、勇気が要ります。

さて、企業のなかで女性は比較的皆さんに優しく接していただけるのですが、そのままの状態では一向に先に進まないのです。もともと磁界シミュレーションより出発したのですが、「構造計算もできますよ」とか、「計算機のシステムメンテナンスもできますよ」などと大法螺をふき、そして陰で必死に勉強するという繰り返しで多方面での仕事がまわってくるようになりました。熱、磁気、構造、流体といった たいていのシミュレーションがそのプログラミング内容を含めてできるようになると研究所のなかでも目立つ存在になりました。

ただ、私は人生の中で家族との時間はできるだけ大切にしたいという思いを常々もっておりましたので、長男の小学校進級と同時に自由な時間で仕事ができるように変更しております。子供が寝静まってから夜通しでプログラミング作業をして、翌日に会社で計算を実行して結果を出すといったことも度々で、自宅作業のことは触れておりませんので社内では「仕事ができる」と思われているようです(苦笑)。

2003年9月より本学で産学官連携コーディネーターとして週の7割程度来ております。残りは三菱電機でモーターの設計や、磁気と構造の連成プログラム開発などをやっています。産学官連携コーディネーターは企業サイドの感性をもった大学スタッフとして、学外の方に大学の研究紹介を行ったり、学内の先生に企業さんからの技術相談を連絡したりといった学内外の橋渡し的な仕事の一端を行っています。最近では卒業生の方を主として、メールマガジンによって大学の今の様子をお伝えすることなども始めました。

ではここから後半部として大学の変動期において皆さんと是非、一緒に考えていきたいという呼びかけをさせていただきます。2004年4月より全国89の国立大学が法人化されました。競争原理などという言葉も頻繁に紙面をにぎわしておりますが、明確な大学個性の打ち出しが強く求められています。本当に強くです。国公立大学の再編、統合も一部で行われておりますが、私の希望としては奈良女子大学はオリジナルにこのブランドを未来につなげていきたいと思いますし、そのために今、大学は在校生の皆さんの「声」を必要としています。

お手元の資料に朝日新聞社提供の「2006年大学ランキング」を一部抜粋したものを載せておりますが、このランキングを見て思うことは、本学の学生さんは向上心が強い、高いのではないかということです。現状に満足していない、もっと高みを目指しておられるということですね。是非、その満足していないというところの声を私たち大学スタッフに聞かせていただきたいと思います。積み重ねられた伝統を未来につなげるためにということで、ちょうど今、在校生の皆様は卒業生と新入生の入会におられるわけで、佐保会を中心にして卒業生からのバックアップ、あるいは職員の方からのサポートもあります。在校生の方も未来の後輩のために何かできるのではないかと思います。是非、一緒にやりたいと思います。皆さんの声を聞かせてほしいのです。

いま、大学が動いている。大学はすごく変わりつつあります。産学連携ではフェアにおいて企業ブースの隣で同じようにPR活動をしていますし、中之島のサテライトキャンパスで社会人向け大学院コースの講義が始まり、大学の中の研究室がNPO法人格を取得(これは奈良県内では初めてのことです。)、というように学内外のつながりが非常に太くなってきております。また国際化も推進され、データはちょっと古いですが去年の8月時点において留学生の方は100名を越えました。今、このような環境は、本当にやりたいこと、やってみたいことができるチャンスだと思います。

私は、大学が情報発信型に移ろうとしているこの時期に、産学官連携コーディネーターとしてお手伝いできることをうれしく思います。本学は非常によい伝統がありますので、これを社会にPRしたい。学生の皆さんの感性を是非貸してください。また、企業に籍をおいているということもあって、大学の研究発信について企業の研究戦略の立て方を導入したほうがいい部分は、大学スタイルにアレンジした形にやってみたいと思っています。知名度アップの戦略にの一端を担えれば、うれしい限りです。

最後に「未来を創る」という大きなタイトルをつけましたが、私もそうですし、皆さんも同じ立場だと思いますが、自分のために、これから続く同窓生のために、やりたいこと、やってみたいこと、大学について思うこと、建設的な提案を声に出してください。本当に今はそれを声に出せば形になるチャンスなのです。私にでも、佐保会館ではお茶菓子を出してみなさんの話を聞いていただける先生方もおられますのでお願いしたいと思います。

今日はありがとうございました。

在学生と卒業生との集いNo.10 平成16年11月19日開催


『Mple Choiceのライフワーク』
 高岡真佐子氏 −仕事も結婚も子育ても、そして勉強もと考えているあなたへ−

<略歴>
奈良女子大学 理学部化学科卒  (1959)
京都市立衛生研究所研究員、国民生活センター調査部情報管理室員
(財)製品輸入促進協会チーフアドバイザーを歴任
 2004年学術修士取得(放送大学大学院修士コース第1回終了生)

<社会適活動>
通商産業省輸入取引審議会委員
経済産業商所管「放送における触覚識別表示の体系化に関する研究」委員
杉並区立男女平等推進センター委員

<講師からのメッセージ>
日本は未だに男性中心社会。女性の就業傾向を年齢別に見るとM型カーブと言われています。このような中で、あなたは何を選択し、自分の能力をどう生かしますか。不満を持たないで、生きられますか。私のささやかな経験をお話ししましょう。

私はいまエイジング社会研究所の代表をつとめていますが、ではエイジングとは何か、食品で言えば古くなること、人間では加齢を意味します。加齢は出生と共に始まります。特にいま捉らえられているのは高齢化社会、日本は急速に高齢化社会になりました。フランスで100年かかった社会変化が日本では25年で起こりました。 そのとき健常な高齢者が最期まで自立して生きるには社会はどうあるべきか、人はどのように過ごすかという課題の一端を私達は担っています。

私は化学科を卒業しましたが、化学にかかわる仕事をしていたのは京都市立衛生研究所の食品薬剤部に勤務していた期間で、その後結婚により退職し、専業主婦の生活に入りました。しかしそのまま社会と縁が切れることは悔しいし、主婦業のみの一生では寂しいという思いで子育てしながら悩んでいました。そのとき、国民生活センタ−でテスト機関の試験員を募集していることを新聞広告で知り、応募しました。結果は採用者側の「幼児を抱えた女性に試験室の仕事はやめた方がよい」との見解で不採用に終わりました。そこで資格を取りその資格を生かして仕事をしようと思いました。最初に受けたのが消費生活コンサルタントの資格でした。これは一定の研修の後消費者問題の専門家として相談員になれるというものです。この資格を得た途端、先程の国民生活センタ−に採用されることになりました。

はじめは情報管理室に配属されました。ここは国民生活センタ−に集まるすべての消費者からの苦情・相談の集まるセクションで、それらのすべてに目を通し、要約してコンピュ−タにいれるのですが、そこで私は消費者問題の大量の情報に接することになりました。将来、これほど多くのデ−タをみることはないのではないかと思うほどの大量のクレ−ム、相談を見ることができて、しかもこれらはコンピュ−タシステムによって処理されて行くという最新のものを見ることができたのは非常に幸いだったと思います。しかし私は相談員もやりたいと思っていましたので、そのとき依頼のあった企業(デパ−ト)に相談員として移ることになりました。

企業では消費者トラブルをいかにうまく収めるかということが相談員に課せられているところがあり、この間に問題の科学的解明と正しい情報の提供に精一杯につとめてきましたが、問題の良心的解決の難しさを痛感しました。企業が如何に売ることに専念しているかを知りましたし、研修を通して企業がコンシュマ−に対してどういう姿勢でいるかを熟知することにもなりました。この時期に消費生活アドバイザ−制度(通産大臣認定、企業と消費者のパイプ役)ができ、第一期生として資格を取りました。これは売り場の説得にも役立ちました。このころから海外の製品が庶民化して輸入品に対する苦情も増えてきました。これに対して消費者の啓蒙と輸入業者への情報伝達の必要を感じていました折り、要請されて輸入品情報センタ−((財)製品輸入促進協会内)へ移り情報発信の作業にかかわることになりました。その後、JETROに本部のある経済国際化センタ−の東京責任者、輸入住宅センタ−の責任者を歴任し、60才の定年を迎えました。

定年退職後はこれまで続けてきた勉強に本格的に取り組みました。49才で放送大学に入学、法律を専攻しました。それは消費者問題の流れが“もの”から法律にかわり、契約が大切なものだと気づいて消費者問題を法的に考えてみたい思ったからです。昭和43年に消費者保護基本法が制定されていますが、法律の系統的勉強なしにこれを理解することは困難ですし、消費者相談をする上でも必要と考えたからです。卒論のテ−マとして「製造物責任法を消費者の立場からみた問題点」をとりあげました。 その後、再度入学(生活と福祉専攻)して繊維製品の勉強もしました。こうして仕事の合間を見て勉強を続けてきましたが、どうしても大学院にはいって深く勉強したいという気持ちが強く、放送大学に大学院が設立(2002年)されると同時に入学し、「シニアの目で見た食品包装の問題点をユニバ−サルデザインの立場から考える」をテ−マにして研究を行い、今年の春(2004年)終了、修士の学位をいただきました。このように勉強するチャンスは何時でもあるし、何歳になっても可能です。意欲があり条件が許せば何時でもできますから、皆さんも将来において、決して希望を失わないでください。

高齢者といえばすぐ介護問題に結び付けがちですが決してそうではない、総務省の統計によれば高齢者はいま2400万人いますが、そのうち85%〜90%は元気で自立して生活しており、その内700万世帯は単身です。私がいまやっていることは、人生の達人であるシニアが人間の尊厳を失わずに最期まで生きる時の生活環境を少しでもよくするにはどうしたらよいかについてです。特に食品の場合はライフラインに直接つながるという観点から、商品のパッケ−ジがシニアにやさしいか否かという点に力を入れています。特にスモ−ル・パッケ−ジ(例えば納豆や鮨用の醤油の小袋)の開封には困難な人が多い、豆腐も同様です。力は75才では若い頃の60%位になり、なかなか開封できない、そういう人々に優しい商品が必要です。字が読みにくいという問題もあります。高齢者が裸眼で読める字の大きさは私共の調査では12ポイントです。JISでは 9ポイントをすすめていますが、9ポイントでは読めません。老眼や加齢による白内障のため、色の識別のできない場合も多い。例えば銀色の地に黄色で書かれたクリ−ム・ス−プの表示は読めない、ブル−の地に紺の文字(自販機など)、オレンジの地に赤や黄色の文字(食品その他)では読めないなど、日常生活でシニアが自立して生活するための障害は少なくありません。これを解決するための情報発信を行っています。このことは生活者にとってよいばかりでなく、企業にとっても大切なことです。2400万人の高齢者の購買力はもはや無視できないものであり、GDPに対する影響を見越した企画を作ることが必要とされています。私はいま、経済産業省が高齢者や障害者を対象として組織した「触覚による識別のための表示を作るための委員会」にも参加して検討をしています。加齢と共に視力の衰えは避けて通れないとすれば、読めることも必要でありますが、触って分かることがより大切なことです。牛乳の切り欠き、シャンプ−のボトル側面のギザギザなど一部の商品に取り入れられているものもありますが、生活に密着し使用頻度の高いものの中にも触って識別することの困難なものも多いのです。たとえばマヨネーズとケチャプのボトル、洗顔フォ−ムと歯磨きなど、容器の素材や形状の似たもの、使用する場所が似たようなものについて、生活者が触って識別できることを提案してゆきたいと考えています。透明ファイルにつけられた段差は、生産の場に取り入れられた一例です。このように生活者が自立した生活を最期まで全うするために商品がどうあるべきか、サ−ビスがどうあるべきかということをやっています。

これまで仕事をしてきたなかで思うことは、人生には予想しないことが間々起きますし、大学で学んだことが役立つこともそうでないこともあります。しかしどんなと時にもあきらめない、将来に向けて自分の力を溜め込む、チャンスを受け入れ、その中で最大限自分の持てる力を発揮することにつとめること、異なった種類の友人を多く持つということです。若い皆さんに言いたいことは生活者の視点を大切に、ナンバ−・ワンよりオンリ−・ワン、自分にたったひとつのものを見つけてください。

[質疑]
Q1 携帯電話の電池の表示が見にくい、メッセ−ジなどで表示できないだろうか? また、高齢者対応の機種にもきめこまかさが足りないと思うが。
A: 携帯電話を使い切っている人は少ないようです。GPSの機能は欲しいが、多機能は不要です。文字が大きい、表示が見やすい、ボタン操作がしやすいなど、単純で目的が達せられるように機能の絞り込みをどんどん提案したいと思っています。
Q2 企業の開発者が若く、健常なひとであることが問題ではないか。
A: 開発する側が高齢者の立場で買いたくなるような商品を作ることが必要でしょう。多機能で高価なものではなく、使いこなせるもの、電子レンジであれば温める機能中心でよいでしょう。パソコンも同様で、マニアを対象としたような機能は不要です。インスタント・シニアの体験(眼鏡、手袋、錘をつけて高齢者の身体状況を疑似体験すること)により、きめこまかい配慮ができるようにつとめています。企画、デザイン部門には生活者の視点、主婦の実感を生かすことができる女性の進出が望まれます。
Q3 大学の中を障害者やシニアの視点から見ると?
A: 段差、机と椅子の間隔など問題がある部分も見受けられます。佐保会からも提案してはどうでしょうか。佐保会がチェック機能を持つことはすばらしい。
Q4 大学のホームページのデザインや使い方に対するコメントは?
A  文字の大きさと色の組み合わせに留意することが大切でしょう。文字は明朝よりゴシックの方が読みやすいと思います。リンク先がわかりにくいところもあります。奈良女子大学のよいところをもっとPRして欲しいと思います。
Q5 先生が卒業された当時の就職状況は?
A  卒業生のほとんどすべてが就職しました。企業が採用しないから多くは教員になりました。公務員試験を受ける人も可能な限りコネを使いました。そういうことをしないと就職は難しかったのです。就職しない人はいなかったように思います。寿退職(いわゆる結婚を機にする退職)は当たり前の時代だったのです。

在学生と卒業生との集いNo.9 平成16年5月14日開催


フォ−ラム『大学で得たもの・得たいもの』
-あなたのキャリアアップのために!-

パネリスト 
・津田美也子氏 1985年文学部教育学科心理学専攻卒。
   在学中よりお天気キャスタ−として朝日放送に出演。
   フリ−ライタ−を経て現在は各種イベントの司会・企画に従事。
  「大学で培ったチャレンジ精神は私の誇りです。」
・橋本陽江氏 1973年理学部化学科卒。
   1975年同大学院修士課程修了後兵庫県立高等学校教諭として勤務。
   現在兵庫県立姫路聾学校の教頭として障害児教育に従事。
  「大学時代にコツコツ積み上げていった日々は、その後の人生の礎となりました。」
・東実千代氏 1989年家政学部住居学科卒。
   住宅メ−カ−に就職した後、奈良女子大学の助手を経て、再び大学院後期課程に入学。
   2004年3月同課程修了(学術博士)。
   「大学生活では予想外の収穫がたくさんありました。」

コ−ディネ−タ− 
平井タカネ氏 1965年文学部教育学科体育学専攻卒
   元文学部長 奈良女子大学名誉教授
   「あなたの未来に役立ててください、卒業生の感じ方と生き方。」 

<講演内容>
津田 美也子氏
私の学生時代、この大学はゆったりと時間が流れていた。色々な地方から、様々な個性を持った人が集まっていて、その中で、私は私でよいという自覚ができてきた。そして多くの友人にも恵まれた。二年生の時、大阪でスカウトされ、タレントスクールでボイストレーニングや演技指導などを受けた。ここでは仕事につながるような事柄はなかったが、怖れず挑戦する前向きな姿勢をもつきっかけとなった。後日友人から広告代理店を紹介され、日本船舶振興会発行の壁新聞を作る仕事に携わった。この時、取材を通して多くの人と出会い、一期一会の大切さを強く感じ、一生懸命に仕事をした。そして、今を大切に生きようと思い、面白いことがあったらチャレンジするようになった。その後、「おはよう朝日です」のアシスタントに応募し、書類審査では選ばれた。オーディションは残念な結果に終わったが、本番前に控え室で練習をしていた時、そこに居合わせた人がその番組を作った大物のプロデューサーであったことから、その後時々声をかけていただいた。次に、ラジオ短波放送のアシスタントのオーディションを受け、大学受験生向けの深夜放送「合格いっぽん道」という番組のアシスタントに起用された。1年後朝日放送からお天気キャスターの仕事の話が来た。それは現在の気象予報士の先駆けであった。当時、朝日放送は女性アナウンサーを採用しておらず、女性はタレント扱いであったが、私は大学生ながらウエザーニュ―ス社の社員として採用された。四年生になった時、卒論を残して卒業に必要な単位は取得していた為、学生とキャスターの二足のわらじをはくことになった。仕事の都合上、大学は休みがちであったが、友人の助けや先生の助言によって卒業することができた。
お天気キャスターを4年間務めたが、結婚を契機に退職した。2人の子供の育児に専念することで、仕事はしばらく休んでいたが、その後、以前知り合った広告代理店の人の紹介で住宅都市整備公団のパンフレット作りを任され、三田のウッディタウンの情報誌を作る仕事をした。関西学研都市の「わ」という情報誌の作成にもかかわった。このような仕事の難しさは、企画と取材相手のアポイントメントをとることにあった。しかし取材で素晴らしい人に会えたり、取材でなければ行けないところへも行けたことは良い経験であった。
大半は、自宅で原稿を書いていたが、取材の時には、子どもを実家に預けることもあった。その後両親の看病や死にも直面し、ライターの休職を申し出た。現在、イベントの司会に携わっている。今になってライターの仕事と放送関係の仕事が結びついてきたと思っている。
今、自分が思っていることは、一つ目は、夢は強く持つこと。そうするとチャンスが近づいてくる。そのチャンスは生かす。やらないで後悔するよりやる方が良い。二つ目は、人とのつながりを大切にする。今まで多くの人に支えられてきた。今後は人の為になれればいいと思っている。三つ目は、ひとはいつまでも成長するものである、ということ。いつまでも若々しくありたいと思っている。奈良女子大学の伸びやかな環境と、よき友人に恵まれて今日の私があると思っている。

橋本陽江氏
大学を卒業後、2年間大学院で酵素のコファクターの構造決定の研究をした。実験材料である菌の培養のために、時には夜中まで実験をしていた。
卒業してから大学時代について思うことは、自分の性格的な面もあると思うが、視野の狭さである。当時、製薬会社の研究所に就職することが多かったが、物質を相手にする研究を続ければ、さらに狭くなると感じた。大学院を出るとき、自分を矯正するつもりで教師になった。最初、母校の進学校に赴任したが、教材研究に追われた。3年くらいで仕事に慣れ、生徒が可愛くなった。いくつかの学校を経て四つ目は、自分で選んで県立農業高校に転勤した。ここで、3年間担任をうけもった。生活科なので女子ばかりであったが、たばこ、飲酒、喧嘩など生徒指導では丸ごとぶつかる必要があった。教材研究は、教科書にない生徒を惹きつけられるような実験を選び自ら学び、理科離れを避けるように頑張った。たいへんであったが、おもしろい日々であった。
再び普通校に戻ったが、そのころから生徒達がのってこなくなったのを感じていた。年齢のせいかとも思っていた。女性の教頭が赴任して来られ、管理職試験を受けることをすすめられた。適していないと断り続けたが、再三の薦めもあり受けたところ合格した。合格して始めて赴任したところが兵庫県立神出学園であった。これは高校の不登校生の支援施設であった。心理学の知識なしでは支援できないことがわかった。そんな時期、臨床心理士の資格を持った同僚に出会ったのは幸いだった。生徒を前向きに変えていくには、うまく順序だてた計画の下で介入をすること、きちんと心の琴線にふれるようにするためには、生徒の観察が必要であることをこの教師から学んだ。中学には全く行かなかった不登校の一生徒の神出での一年を事例研究としてまとめて論文を書き、私も学校心理士の資格を得ることになった。この学校での3年間は私にとってターニングポイントとなった。自分の子どもとの関係もやり直すきっかけをつかむことができた。大学の三回生になっていた自分の娘が悩んでいるとき、神出での経験からうつ病ではないかと気づき、臨床心理士の助言を受けて、心療内科を受診しカウンセリングを受けさせた。彼女は2ヶ月で元気になり、公務員試験にも合格するという経験をした。神出での経験がなかったらオロオロするだけで、何をしていいかわからなかっただろう。
人は変われるし、誰もが力を持っていて成長するものである。前向きに変わるために、自分で力を発揮できる人もいれば、人の支援が必要な人もいる。教育の場で、また娘のことでそれを実感した。皆さんには、目の前のことに一生懸命取り組んでほしい。それは、必ず成功失敗にかかわらず将来につながるものであり、どんなことも無駄なことはない。挫折や失敗を怖れることなく、失敗してもそれを栄養として、がんばってほしい。
聾学校での教頭という立場は、学校を変えよう、生徒に力をつけようと考えるといくらでも仕事がある。豊かな人的資源を持ちながらそれが充分活かされていない学校の現実を前にして、稔りある教育をめざし、よき学校にしていきたいと思っている。

東実千代氏
住居学科を卒業して、住宅メーカーに就職し、好きな設計の仕事が出来ると夢を描いていた。当時、雇用条件をあまり考えずに就職を決めたが、結婚することになったとき、女子は地区採用なので、転勤は出来ないと言われた。上司の計らいで一度退職して、嘱託社員となり転勤したが、これは正社員ではなく一年契約の雇用となった。そこで、キャリアを積もうと思っていたが、やがて、子供が出来、嘱託社員には育休がなく産前産後の休暇はとれなかったので、残念ながら、仕事をやめざるを得なかった。
長女を出産してしばらくした頃、縁あって、母校の教務補佐員に迎えられた。その後助手を経て退職し、再び大学院に入学した。この3月、後期課程を修了して、4月から非常勤講師として本学に勤務している。初めの夢とはかけ離れた人生を歩んでいるが、いろいろな経験をさせてもらって感謝している。
学生時代には、専門を勉強することの楽しさもあったが、昼前に少し早く授業を終えて下さる先生を歓迎したものである。教師という立場に立ったとき、はじめて気付いたのは、教師が大学のこと、学生のことをどれほど考えているかということである。卒業式後学生のいなくなった新学期までの研究室の淋しさも実感した。学生時代も、教師という立場の時も奈良女子大学は私にとって魅力的な大学であった。だからこそ、博士課程に入学した。これからも私が魅力的だと感じたままの大学であってほしいと願っている。
私は子供の頃から、住宅の広告をみることが好きであった。広告を眺めながら、そこで展開される生活を想像していた。私の気分転換は、家族には迷惑であったと思うが、家具のレイアウトを変えることであった。そんな私なので、住居学科に行くことは当然ともいえるが、高校の修学旅行で見た、奈良女子大学の佇まいが、気持に一層拍車をかけた。学生時代、寮から記念館の横を通って授業を受けに行くのがうれしかった。大学が適正な規模であり、友達もつくりやすく、心地よかった。建築学科ではなく、住居学科では人の暮らしから住宅を考えることが出来たし、専門的知識は大変役に立ってよかったと思っている。設計演習の時には、同級生と共に、夜中も製図室で図面を描き、一緒につきあうことで同級生との絆が深まった。
大学院では、ストレートに入学した学生との年齢差に不安を感じていたが、私より年上の方々の姿に、学ぶことに年齢のバリアはないと思った。学部では、物事が学内で完結したのに対して、大学院では、学会や研究会など学外とのつながりが沢山出来たし、困難も大きかったが、達成感が大きかった。知識欲には限界がないこともわかったし、大学院に入ってよかったと思った。これは期待通りに得られたものである。
予想外に得られたものは、卒業後に感じたことが多い。住宅メーカーに就職して間もない頃、重い荷物をひとりで持とうとしたとき、共学校で学んだ同僚が驚いたのをみて、何もかも自分でする精神が培われていたと気づいた。このような気づかずについてくる逞しさは、奈良女子大学で漏れなく得られる特典である。同級生との絆も強い。全国から来ていたし、住居学科は特に個性派が多かったが、卒業後も年2回機関誌を発行し近況を確かめあい、助け合っている。同級生には利害関係がなく、同じ想いを共有できる仲間だという友人の声もある。予想外の収穫として最後に付け加えたいことは、仕事と育児の間で困っていたとき、母校の先輩から随分助けられ、助言を得たことである。
最近「わかる」ことと「気づく」ことのちがいを考えるようになった。わかったつもりでも後になって改めて“気づく”のが常であるが、アンテナを張り、努力すれば「気づく」機会を多くすることが出来る。今は気づかなくとも卒業後きっと学生時代に得られた予想外の収穫を感じ取ることが出来ると思うので、今を楽しんで、大切に暮らして下さい。

<質問>
1橋本さんへ 人前で話すことが嫌いなのになぜ教師になったのか。決断の部分を聞かせて下さい。
橋本 県職員の試験に落ちたことが一つと、家庭の事情で絶対に職に就く必要性と家に帰らねばならない状況もあり、教員採用試験を受け、自分を変えたいと思ったからである。

2.パネラーのみなさんへ 大学で視野を広げたいと思っているが、皆さんの経験からそのような場面を聞かせて下さい。
津田 小さい学校であるので、大学では友達が出来たが、学生でありながら社会で活躍していたので、様々な年齢、職業の人に出合えたこと。
東 ワークショップなど、研究会や設計事務所の手伝いなどをしておけばよかったと思う。
橋本 自分は視野を広げる努力はしなかったと思うが、本を読んだり、人と話したりして自分を深めてきたとおもう。そういう6年間の学生生活が今役に立っている。

3.東さんへ 大学と社会とで一番視点がちがうのはどういうことか。
東 学生は学費を払って学ぶ権利を得ているが、会社では給料をもらって貢献しなければならないこと。学生はやりたいことだけでも過ごせるが、社会では結果が求められる。その厳しい中で過ごしたことが、自分を成長させたと思う。学生時代は権利を保障されているので、いまを大切にしてほしいと思う。

4.橋本さんへ 院卒で会社でも対人関係は築けるし、視野は広がると思うが、あえてなぜ教師になったのか。
橋本 イヤでも話をしなければならないし、生徒との対話をしなければならないからである。自分が変えたいとの思いがあればどこでも出来ると思う。今なら教師にこだわらなくてもよかったと思う。

5.大学生活で、何に力を入れたか。
東  部活には力を入れたように思う。忙しくても色々なことに関わろうとした。
橋本 勉強に力を注いだ。
津田 種々のアルバイトをした。奈良女子大学にいる時間は少なかったが、奈良女子大学の看板を背負っていた。まじめで勤勉であるという評価であったので、信用してもらっていた。
橋本 大学を出てから、同窓会の人から助けられた。兵庫県では女性の校長教頭のうち4分の1は奈良女の卒業生である。大学では、人に頼らず、自分で何とかする精神を養ってきたと思う。

6.津田さんへ 心理学は、どこで役に立ったか。
津田 心理学は直接ではないが子供を育てるのに役に立った。

7.学生時代に思い描いていた理想は達成できたか?
津田 今思えば、もう少し仕事を続ければよかったと思う。しかし、子供を育てることで自分をかえてきた。40代になった今もっと勉強したいし、まだ成長段階である。
橋本 人と交流できる人になれたらと思い続けてきたが、アンテナを立てていると人はそのように努力するものである。苦手な人とでも対立でなく、統合したいと思っている。 東 学生時代の想像とは全くちがう人生をおくっている。しかし、その時々で、マイナスもあったが、今、充実している。今は手一杯だが、数年経つと同じことが大したことではなくなることがある。それを思うとすこしは成長していると思う。

平井 本日の3人の卒業生の皆さんは、真剣に自分の現状と過去を振り返りながら若い人にがんばってほしいとの想いを込めて話して下さったと思う。在学生の皆さんには女性が生きていくことに想いを馳せて、自分の人生設計をよい方向に向けて、目の前にあることに精一杯取り組んでいただきたい。奈良女子大学での生活を楽しんで、充実した生活を送ってほしいと思う。先輩達の話を思い出しながら、先生や事務職員の方との交流も深めて下さい。パネラーの方の発言にもあったように、奈良女子大学では女性ばかりであるけれど、知らず知らずのうちに力が付いてくるものがある。また先輩から語っていただく機会を持ちたいと思っている。どうぞ、色々なことにチャレンジして、充実した学生時代を送って下さい。それが卒業生たちの願いでもある。そして、卒業されたら佐保会のメンバーとしていろんな場面での活躍を期待する。大学内に佐保会館という同窓会館があり、そこには、会員のだれかがいる。皆さんが思っていること悩んでいることを語りに来て下さい。
最近、女子大学へは仕方なく来たとの報道もあったが、3年前、お茶の水女子大学との合同調査では、50年前に卒業した人たちより、この20年未満の若い卒業生の方が、女子大でよかったと思っていることがわかった。それはお茶大とも同じ結果であったことを最後に皆さんに伝えたい。
佐保会館は古いが、古き良きものがたくさんある。皆さんのお越しをお待ちしています。

在学生と卒業生との集いNo.8 平成15年11月21日開催


「地球市民」を意識した時見えてくるもの   −NGOも係わって15年−
 山崎登美子氏 

<略歴>
 奈良女子大学文学部史学地理学科地理学専攻卒業(1965)
   卒業後、高等学校に23年間勤務
 フィリピンミンダナオ島少数民族の教育支援の会に属し植林などの助成事業を担当(1988)
 杏林大学大学院国際開発専攻修士課程入学、1997年修了(1995)
 新たにミンダナオ島先住民族・係わる任意団体「議らーんの医療と自立を支える会」を設立(1998)
 同団体が神奈川県認証の特定非営利活動法人となるに伴い理事長に就任。事務局責任者を兼務して現在に至る。(2000)

<講演内容>
講師山崎登美子氏は、奈良女子大学卒業後、高校教師として長年「地理」を教えてこられた。この教科の授業の導入として用いた新聞記事の中で、「森喰い虫・日本」に関わる熱帯林破壊と森の民の苦境を知り、フィリピン・ミンダナオ島の少数民族の教育を支援する会に属して植林の助成事業に携わった。さらに平成7年には杏林大学大学院国際協力研究科修士課程に進学(平成9年3月終了)して,発展途上国の国際協力のあり方を研究された。一方,長年の豊富な経験と研究の実績をもとに「ビラーンの医療と自立を支える会」(現在は特定非営利活動法人として認証されている)を設立し、現在はその会の理事長として活躍されている。本講演では、山_氏がNGO活動に深く関わるようになった原点が奈良女子大学に学んだこと、さらに、現在支援活動しているフィリピン・ミンダナオ島の山地に住む少数民族ビラーンがかかえる諸問題を地球市民的視野に立って考えていることなど、長年にわたる貴重な体験をもとに、映像を交えて話された。

NGOに関ることになった背景
1.奈良女子大学に学んで
私は奈良女子大学文学部に入学したときは英文学科に進むつもりであった。入学後2年経って専門分野に分属するとき、同郷の先輩である榑松先生(故人 佐保会員,地理学科教官)からの勧めもあって地理学を専攻した。卒業後、高校で「地理」を教えるとき、地球上のいろいろな出来事について生徒に興味を持たせるために、授業の導入として新聞記事を用いていた。記事の中で目に止まったのが日本も関わって森が破壊されたミンダナオ島の山岳少数民族教育支援の訴えであり、その里親の会への参加が現在のNGO活動につながるきっかけである。一方、英文科へは進まなかったが、クラブ活動としてESS部にはいって英会話の勉強を続けていたことも今役立っている。さらに点訳クラブに入ったことも現在の活動につながっているかも知れない。当時の点訳クラブ顧問であった松沢氏(故人 大学の事務官)は、クラブ員を何度かハンセン病患者の療養所訪問に連れて行ってくださったが、その時の全く偏見を持たず自然体で患者に接する松沢氏から私たちは多くを学んだ。ミンダナオ先住民族もフィリピン社会では差別の対象になっていて、特にイスラム系民族のモロは怖いといった偏見が根強い。今、特に気負わずフィリピン社会の少数派の人びとと働けるのは点訳クラブの体験が生きている気がする。
2.フィリピン・ミンダナオ島の少数民族の現状
フィリピン・ミンダナオ島に住む先住民族の一つであるビラーンの人たちはもともと平地に住んでいたが、入植政策や大規模農業開発などによって土地を追われ、山地に移り住むようになった。しかし、その山地もまた森林伐採が進み(木材の多くは日本に輸出)、さらに伐採の跡地は彼らの食料であるトウモロコシを植えるために開墾を余儀なくされ土壌侵食が進んだ。また、1970年代のモロ民族と政府軍との抗争を逃れてビラーン民族が一旦土地を離れている間に、自分たちの土地が広大なパイナップル農園に変わってしまった地域もある。今もごく一部しか取り戻していない。このようにビラーンを含めた先住民族の多くは生活基盤を失い、学校がなかったり、あっても貧困ゆえに初等教育さえ受けられないこどもがたくさんいる。また、交通が不便なうえ、お金がなくて病院で治療を受けることができないで死んでいく人もたくさんいる。 私たちからは遠く離れた地域のことだが、地球市民的な視点からみると、環境も経済的問題も無関係ではない。実際パイナップル農園で土地返還運動をしていたビラーンの人たちに日本のNGOに期待することはと聞いたら、自分たちの生活基盤が壊されない(土地を奪われない)ように日本政府からフィリピン政府に働きかけるよう伝えてくれと頼まれた。大農園で生産されるパイナップルやバナナを買わないでほしいという訴えもあった。

NGO活動と支援の実状
1.NGO活動とは
NGOというのは,国連憲章で最初に使われて一般的になった語で、国際協力をする非政府,非営利の市民組織というような意味で、非営利の民間団体の総称であるNPOより限定された使い方をされている。私の属している団体は、発展途上国の医療や教育支援を通じて経済的自立を支援する開発協力タイプのNGOであるが、貧困の原因は何かを伝え、貧困の解決には何をしたらいいかを呼びかける提言型に、さらにNGO間のネットワークを作って活動しないと、世界の貧困や環境問題は解決しないと考えている。
日本にある各種のNGOはそれぞれの目標を掲げて、さまざまな問題を解決しようと努力していて、そのために有能な人材を求めている。しかし、財政的に余裕がなく、十分な給与を払えないので、生活のためにやめていく若いスタッフも多い。このように条件はよくないが、NGO活動もライフワークの選択肢の一つとして考えていただけるとうれしい。NGO活動について理解し、その必要性を感じていただくために、「100人の村メッセージ, 池田香代子訳」*1 の一読をお勧めしたい。
2.教育・医療支援
私のかかわっているNGOでは,ビラーン民族自身が森の修復につとめ、民族の伝統・文化を守り継承し、経済的にも自立する上で必要な教育の支援をしている。初等教育の普及のための奨学金支援(一人1ヵ月100円)や、ハイスクールやカレッジへの進学希望者の奨学金支給制度も設けており,助産師、鍼灸マッサージ師になるための勉強をしている学生もいる。しかし,若者が町の学校で学び、都会での生活を知ると村に帰ってこないケースも多く、教育支援の結果、帰村して村の発展に役立ってほしいと期待している長老の願いをかえって裏切ることにもなるという葛藤がある。
また、「医療を支える会」として、私たちは簡易クリニック(ライフセンター)をつくった。巡回診療の拠点であると同時に住民の集会所でもあるセンターは住民の経済的自立の拠点でもある。医療も将来的に外部支援なしで「自立」できるように、現地協力組織CMBと地域限定医療保険組合のような相互扶助システムをはじめたが、その意味、メリットを理解してもらうのは難しく、教育を受けた次世代に期待をかけているのが実情である。
助産師などカレッジの医療コース修了者も出始めたが、国家試験が難しくまだ資格を持ったビラーンの医療従事者はいない。もともとたくさんの言語があるフィリピンだが、先住民族(少数民族)の場合は、一層言葉に対するハンディが大きく全国一斉試験のハードルは高い。フィリピンの国語タガログ語は、小学校で初めて勉強するもので外国語に近いのがその一因である。
画一的な教育システムでドロップアウトする子どもたちを救済するためのフリースクール事業の支援も始めた。英語やタガログ語の記述に、チボリ語やビラーン語などの民族言語を併記した教科書(小冊子)の発行を事業に含めている。
3.植林支援
活動のなかで「山地に樹木を取り戻す運動」も重要な分野である。木を植える土地が荒れているので、まず土壌の流出を止めるために等高線状にフラミンジャ(潅木)の種子をまき、木が数10cmに育ったとき、潅木の間に果樹や樹木の苗を植える。その間にトウモロコシや根菜類を植えて食料を確保するという傾斜地農法をとりいれている。
治療、入院支援以上に重要な医療支援活動は、きれいな水の確保である。多くの場合、水は数キロ離れた水源から引っ張ってくるのだが、乾季には水量が極端に減少することがある。年中豊かな湧水を確保するためにも水源地域の植林をすることが必要になってくる。
4.住民組織化・組合育成支援
・ 医療の相互扶助組合は、1日1ペソ(1ペソ=2〜2.5円)を払うことで,1年間3000ペソの医療費を無料にするという仕組みで、将来はNGOの支援なしで組織が機能することを目指しているが、すでに述べたように、まだ負担金の支払い率が低くなかなか軌道に乗らない。
・ 民族の伝統技能を活かして女性の経済的自立を図る目的で設立された組合が、その機能を活かして女性たちが力をつけるように、材料費などの小口資金を貸して、出来上がった製品を組合を通じて購入し日本での販路拡大に努めている。ティナラク織(アバカの茎からとった繊維を草木染して織り上げたもの)や,ビーズの髪飾り,精巧な刺繍を施したブラウスなどがある。
・ 農業など多目的住民組合育成支援では、輸送費の負担が大きい山の住民のために、トウモロコシの収穫後処理機械(コーンシェラーやコーンミル)を購入し、共同使用している。
このように私たちは最終目標を住民の経済的自立におきながら、各種分野の支援を平行して実施している。支援を受ける住民の参加のもとで、私たちも住民の文化や伝統などを知り尊重しながら事業をするように心がけている。「多様性を尊重」し、現地の状況を正しく把握して、考え、一歩踏み出すことが重要だと思っている。

*1 「世界がもし100人の村だったら」 C.ダグラス・ラミス他著 池田香代子他訳 Amazon , co.jp

<懇談会>
Q. ミンダナオ島には国境なき医師団がきているのですか。
A. きていないと思います。フィリピンには医師や看護師は十分いて、むしろ彼らの働く場所が足りない。というか給料が安いのでアメリカなど海外へ行ってしまう人が多いと聞いている。お金がないから医者にかかれない人がたくさんいる反面,お金さえあれば十分高度の医療が受けられる国である。

Q.活動していて腹立つようなことはないのですか。
A.元来自分はあまり腹が立たない性格みたいです。もっと腹を立てた方が活動のエネルギーになっていいのですが。

Q. 現地人と,どのようにして馴染まれたのですか。
A. 私の外見がそう強そうでもなく、金持ちそうでもないし、しかも女であるということから、また何か奪いに来たのかという警戒心を抱かせずにすんだかも知れない。相手に誠意を持って時間をかけて接すればなんとかなった。もちろん現地の事情に通じている現地カウンターパート(協力組織・NGO)の意見も尊重して相談しながらやっている。

Q. 貴女のNGOの規模はどのくらいなのですか.
A. 社員(会費を払って運営に参加してくれる人)が50人,賛助会員130人(定期的に寄付をくださる人)で、これらの会費収入が年間500万円。あとは政府や民間財団の助成金300万円で合計800万円ぐらいの事業規模です。奈良女子大点訳クラブの先輩後輩も数名協力いただいています。日本のNGOは資金面で基盤が弱い。欧米諸国と異なり寄付社会ではないので、そういう意味では大変です。

Q. 私はNGOに参加したことがないし、自分にはそういうことができるとも思わないが、あなたがそういう活動をすることができるのはなぜなのでしょうか.
A. みんな個性が違うように、みんなの幸せのために働くのにどの分野がいいということもないので、企業活動でもいいし、政府機関に入って活動するのもいいと思う。NGOにかかわるというのも将来の選択肢の一つと考えればよい。
私も今はNGOに関わっているが、完全に民意を反映した民主的な政府が世の中に存在するのならNGOは必要ないかもしれない、NGOが不要となる世の中になるのが理想だと思っています。

Q. 少数民族間の対立というのは深刻ではないのですか。
A. 少数民族同志はお互いに土地をうばわれたものとの共通の被害者意識がつよく,そのせいか民族間の抗争はあまり聞きません。もっと小さい単位の親族集団間の抗争の方はまだあります。関わっているコミュニティーも3年ほど前に抗争を恐れて一時多くの住民が村を離れたことがあります。

Q. 新聞記事がきっかけでそこまで深くNGOに関わりをもたれるというのはどういう経過をたどられたのですか。
A. もともとこのような活動に関心があったこと、大学時代に点訳クラブに入ってまもなくハンセン病療養所訪問に加わるなど、気になると自分で関わりたいと思ってすぐ行動してしまうところがあるようです。15年余り前にはじめてNGOに参加した経緯は、娘が学校の禁止しているアルバイトをしたいといいだしたときに,アルバイトして得たお金を学校へいけない人の学費として支援するならと条件をつけたのがはじまりです。私自身も続けて会員になりましたが。

Q. 山崎さんが関わっておられる開発NGOは,何を目標にどういうことを達成しょうとしておられるのですか。
A. 私たちが現在生活しているのと同じような生活を現地の人たちにしてもらおうとは思っていません。先住民族の伝統的価値観を重んじ、住民参加のもとで、また、教育に関しては、できれば現地の子どもたちも参加してもらって、彼らの求めているものを知り、実現可能なことから支援していくように心がけている。しかし、常に住民や子どもと一緒に生活しているわけではなく現地駐在員もいないので、現地のカウンターパートを選ぶときに、私たちと同じような支援姿勢の組織を選び、これら現地NGOとの信頼関係のもとで協力して支援している。
最終目的である住民の経済的自立実現は短期間には難しいことだが、その手段としての相互扶助の組織、組合育成は、もっとも重要なものだと考えている。もともと土地私有の習慣がなく共同体意識が強いはずだが、生活基盤の土地も森もうしなった状態で、人工的に相互扶助組織を再構築しようとするのはむずかしいテーマで、理念の研修をしたり、教育を受けた村のリーダーの成長を待つ必要を感じている。

在学生と卒業生との集いNo.7 平成14年6月16日


『ジャンルを超えた仕事で得たもの−人財産(ヒトザイサン)築きました−』
 六本順子氏  

<略歴>
1970  奈良女子大学文学部幼教課程修了
      奈良市立大宮幼稚園に奉職
1977  同退職 服飾工房クロに入社。社長秘書として勤務。
1983  同退職 アバンギャルドに入社。コピーライターとして勤務。その後独立し、フリーに。
1992  (有)セストを設立。代表取締役社長で現在に至る。
2000  (株)奈良シテイエフエムコミニュケーションズの副社長を兼任。

<講師からのメッセージ>
卒業して30年余り。今の日本とは違い、まさに高度成長がスタートした時代でした。鉄鋼、電機、造船等の製造一流企業がもてはやされ、デモシカ先生という言葉が生まれました。先生デモするか、又は先生シカなれないという意味で、憧れの職業ではありませんでした。その先生からスタートした私の仕事遍歴ですが、転機に逆らわず、とりあえず挑戦してみました。何の脈絡も無いように思えるジャンルの異なる仕事でしたが、それが一つに繋がるのが人のネットワークでした。

<講演要旨>
皆さん、こんにちは。ご紹介をいただきました六本順子です。私は今までいろんな仕事を遍歴してきました。その経験から、今では「一財産」ではなく「人財産」を築いてきたと思っています。その間に得たこと思ったこと等を職業遍歴の後を辿りながらお話しして行きたいと思います。
私は、昭和43年奈良女子大学幼稚園教員養成課程に入学しました。幼稚園教諭になることは私の第一志望ではありませんでした。小学校・中学校は、いわゆる進学校と言われる学校に通っていましたから、京大か東大を目指して頑張っていました。しかし中学三年の時大病をして一年間休学し、更に高校では肺結核を煩ってしまい、結局同級の友人とは、二年も遅れて高校を卒業する事になってしまいました。この時せめて大学卒業はクラスメ−トと同じ年に卒業したいと考えまして、二年間で卒業出来る大学を探し、見つけたのが本学の幼稚園教員養成課程でした。
入学当時の大学の建物は古く、先生方もお年を召した方が多くて、大学の雰囲気は地味でひっそりしているという印象でした。他の大学に進学した友人から聞く大学のイメ−ジから随分かけ離れていました。しかし在学中に心が通じ合う友人と巡り会えたことは私にとってすごく良かったと思っています。学部を越えて友情を高められたのは私の大学生活を大いに意義あるものとしました。昭和45年本課程の最後の学生として卒業致しました。当時は万博の開催を控え、コンパニオン大募集の時期でした。多くの友人はそれに応募していましたが、コンパニオンは任期一年程度ですから、もっと安定した職業を選びたいという思いから、「でも、しか」先生の気持ちはありましたが、幼稚園の教諭を志望しました。
卒業して直ぐ、幸いにも奈良市立大宮幼稚園に就職する事が出来ました。子供達は本当に可愛い!と思いました。幼児教育の奥の深さに魅せられて、一生幼児教育に携わろう、オ−ソリティを目指してこの分野に専念しようと思い、研究会にも熱心に参加しました。またこの時期、結婚をしましたが余り長続きはせず離婚という苦い経験もしました。それによって、心は大きく傷付けられ、人を信じられなくなってしまいました。そして子供達を教育することにすっかり自信を無くしてしまい、結局幼稚園教諭の職を辞することになりました。この人生の転機が職業遍歴のスタ−トとなりました。
その後自分の希望の達成と生活の自立を求めて様々なジャンルの仕事に携わってきました。社長秘書、コピ−ライタ−を経て現在はブティックと喫茶の経営をしています。2000年からは奈良シティドットFMの経営にも参加しています。次にそれぞれの仕事のプラスとマイナスについてお話しします。

・ 幼稚園教諭の場合 先程も言いましたが、子供達は本当に可愛い。随分我が儘な子もいますが、全く冷え切っていない柔らかい芽生えの人の心、人の裏を見ない純粋な心の状態を7年間の教諭生活を通じて自然に観察出来たことは本当によかったと思っています。これは後で人を観る上で大変役に立っています。一方マイナスの面もありました。子供達のお母さん方は子供を預かって貰っている立場ですから、教諭の言うことは「絶対」です。それに逆らうことはありません。いつの間にか傲慢になってしまった自分に気が付かなかったことは反省すべき点でした。

・ 社長秘書の場合
幼稚園を退職した後、親戚の勧めもあり、また自分が服飾に興味を持っていたので、服飾工房「クロ」に社長秘書として勤めることになりました。秘書という仕事は相手(私の場合は社長ですが)が今一番望んでいるもの、必要としているものは何かを素早く察知する能力が要求されます。その能力が養われたのはプラスだったと思います。しかし相手と見解が異なっている場合、秘書は自分を引かなければならない立場にあるものですから自己主張したり、リ−ダ−シップをとる心が退化していったことはマイナスだったと思います。この時期再婚の話もありましたが、女一人自立して生活して行こうと決心し、転職を真剣に考えるようになりました。その時知人に紹介されたのが次のコピ−ライタ−の仕事でした。

・ コピ−ライタ−の場合
最初見習いコピ−ライタ−として「アバンギャルト」デザイン事務所に入社したのですが、頼りにしていた先輩が急に退職したものですから、入社早々に責任ある立場に立たされてしまいました。コピ−ライタ−の仕事は対象とする品物の豊富な知識が不可欠です。今まで馴染みの無かった事柄も必死で勉強しました。学校での勉強は大嫌いでしたが、仕事に繋がる勉強は本当に楽しかったです。勉強した事柄がどんどん身に付いて行くのは、大きな喜びでした。仕事に集中するあまり時間に追われる不規則な生活が続きましたが、それさえも何かキャリアウ−マンになったような気分で美徳のように思えてきました。筆一本で稼ぐ自信も出来ました。しかし年齢を重ねた今健康を維持する上で当時の無理を悔やむことが多くあります。

・ブティック経営の場合
コピ−ライタ−をしている時でしたが、友人の依頼でブティック店の経営を依頼されました。この仕事は人の良い点を引き出し、美しさと同時に夢を売らなければなりませんので、暗い気分ではやって行けません。マニアルに書かれているような鏡を見ながら作る笑顔ではなく、店に足を運んでくれた客に対する感謝の気持ちを反映した笑顔でなければならないことを痛感しました。そしてくよくよしないプラス思考がアップしたのもこの時期だったと思います。一方で経営者となれば収入は安定しなくなります。仕入れ、人件費等は直接社会の景気と連動します。バブルの時、商品は随分売れました。店舗も拡大して行きましたが、それにかかる経費も大変なもので経営者としての苦労もしました。給料は貰っている方が、どんなにか楽で、有り難いか身に沁みました。この時期コピ−ライタ−の仕事を止めブティック経営に専念することになりました。

今まで述べてきましたように、いろんな仕事を遍歴して参りましたが、その経験からジャンルの違う仕事の中に共通していることがあることに気付きました。それについて少しお話ししましょう。

・誰もがラッキ−と思ううまい話には意外と落とし穴がある。
一面的にラッキ−と思えるものでも自分の人生にとって本当に大事なチャンスであるかどうか、ワンテンポ置いて熟慮の上で取りかかる沈着性が必要ではないか思います。

・決断を迫られたとき本当によいアドバイスをしてくれる人を見つける。
最良のアドバイザ−はやはり親ではないでしょうか。子供は親に対して反抗するものですが、我が子の幸せを願う親の気持ちはどの他人よりも強いものです。親の意見を一応押さえておくのは大切なポイントだと思います。次に個人的なことであれば尊敬できる人、仕事に関係する事であれば経験のある人に相談できれば、大きな失敗を避けることができるでしょう。

・不平不満で愚痴るくらいなら、その仕事は辞めた方がよい。
どんな仕事でも辛いことはあります。しかし仕事は本来楽しいものでなければなりません。愚痴るばかりならば、それはその仕事に適性がないのですから辞めて、別の生き方を考えた方が良いと思います。

・「我」があるうちは、自分を大きく伸ばすことはできない。
自分の意見は正しいと思う「種」のようなものを心に持っていると、相手がどんな良い助言をしてくれても、それを聞くことは出来ません。素直な心で他の人からの意見に耳を傾けるのは大切なことだと思います。講演会では多くの有益な話を聞くのですが、私は、自分にプラスになることを一個だけでも憶えて帰るように心掛けています。今日の私の話の中で、皆さんがもし何か一つでも心に留めて下さることがあれば嬉しいです。

・「人を喜ばせよう」を第一に考えていたら、大きな失敗は無い。
これは私の先生から教わったことですが、「人に喜んでいただく」という消極的な気持ちでは駄目で、「人を喜ばせよう」とする積極的な態度こそが人間関係に大切だということです。そうすれば、自分のしたことに対して相手が喜ばなければ、腹立たしく思うのではなく、自分の考え方の方向あるいは方法に問題がなかったかと反省し、次回に向けて改善策を考えることでしょう。

ここで若い学生の皆さんにいくつかのメッセ−ジをお送りしたいと思います。 まず、「夢は一つきりじゃあない。」ということです。チャンスを逃しても夢破れても落胆することはありません。それが幸運のプロロ−グになるかも知れないのです。このような例は私自身の経験の中でも、また知人の場合にも数多く見てきました。さてその夢の実現ですが、自分一人では容易なことではありません。人の助けが必要です。今まで困難に直面したとき、私は多くの人の助けをかりて乗り切ってきました。これを私は「人財産」として大切にしてきています。次に、自分の欠点に劣等感と持っている方がおられるかも知れませんが、「何かが欠けているほうが幸せ」と言いたいです。その欠けたものを埋めようとするパワ−が湧いて来るものです。そして、若い人達は自分で気付いていない可能性を多く持っています。「その可能性の種を沢山見出してください。」その種に水や肥料を施し成長を見守ってください。これから先、どこで花が開くかわかりません。
最後に人と人の出逢いの広がりと不思議さについてお話しして、今日の講演の終わりにしたいと思います。私は、現在ブティックと喫茶の経営の傍ら、ナラドットFMの経営にも副社長として携わっています。これは奈良市と奈良市民が共同出資し、6年間の準備期間を経て2000年に発足したものです。奈良の閉鎖的、保守的な体質を変え、革新的な情報を発信すること、世界遺産都市である奈良市を世界に向けてアピ−ルことを目的としています。また奈良国際アカデミ−というボランティア活動も行っています。これは奈良出身の国際的な音楽家を育成することを目指しています。これらの事業は多くの方々の協力なしでは発展させることは出来ません。今この仕事を支えてくれているのは、主に退職後の人達です。その人達は時間的な余裕もあるし、いろんな分野でのエキスパ−トもいらっしゃいます。何よりも人の役に立ちたいという熱意を持っている方々です。今ではこの人たちによって素晴らしい人のネットワ−クが構築されています。 このネットワ−クは一度切れてもまた繋ぐことが出来ます。ある期間お互い疎遠になっていても、相手のことを心に留めていればいつか関係を修復できます。更にネットワ−クを広げて行くコツは相手の良いところを見出し、自分に欠けている所を知ることではないかと思います。人間関係は複雑ですが、また不思議なものです。救いの手を差し伸べれば、いつか自分も救われる、助けた人ではない人からです。この人のネットワ−クを「人財産」とし大切にしていることを前にお話ししましたが、この財産の特徴は何でしょうか。資本が無くても、人と人との信頼の絆で築くことができます。その価値は景気に左右される心配もありません。そして大化けする可能性を秘めた価値ある財産と言えるでしょう。ご静聴有難うございました。

在学生と卒業生との集いNo.6 2002年11月8日


『企業での材料開発に携わって ー女性をめぐる環境についてー』
 奥田靖子氏  

<略歴>
1985 奈良女子大学 物理学科 卒業
1987 奈良女子大学 理学研究科 物理学専攻 修了
   住友電気工業株式会社 入社
   基盤技術研究所にて、酸化物高温超電導材料の開発に従事
1993 有機エレクトロルミネッセンス素子材料の開発に従事
1994 特性評価センタ−にて分析技術の開発に従事
   現在 解析技術研究センタ− 主席)

<講演要旨>
講演者奥田靖子姉は1987年3月に本学大学院修了後、直ちに住友電気工業株式会社(住友電工)に入社された。入社直後は基盤技術研究所で酸化物高温超電導材料の研究開発に従事し、1994年からは、特性評価センターでの分析技術の研究開発に携わってこられた。その間、自ら選んだ研究職の道を、強い意志と絶えまぬ努力で押し進み、現在は解析技術研究センターで主席という重責にある。(2002年1月に特性評価センターから解析技術研究センターに変更される)講演では、専門的な詳しい仕事の話というよりは、その取り組みの姿勢や態度、あるいは時々に感じられたこと、日々考えられておられること等を実際の経験に基づいて話された。これは在学生に、大きな勇気と希望を与えるものであった。講演の要旨は次の通りである。

はじめに、住友電工が、力を入れている主な技術・開発分野「情報通信、新素材、エレクトロニクス、オートモーテイヴ、エネルギー」について、簡単な紹介があった後、超電導材料の開発に携わった頃から今までを振り返って次のように述べた。
1986年に高温超電導体が発見され、超電導フイ−バ−の真只中の1987年に、講演者は住友電工に入社して、直ちに超電導材料の開発に携わった。入社間もない時期に最も驚いたのは、実験のサイクルの速さだった。実際にモノを作ったり、測定するという現場作業に従事する「作業職」と、自分たちのように、実験立案や解析を行う「総合職」が、分担して仕事を進めるため、仕事の効率が非常に良く、学生のときに何から何まで自分でやっていたことと比べると、時間的に格段の差を感じた。また実験結果を解析し、次に進む方向を決定し、実験を立案する、と言った仕事をするにあたり、戸惑うことも多く、学生時代、いかに先生頼りであったかと反省するばかりだったが、この時以来、「自分はどうしたいか、どう考えるか」といったことを常に自問自答しながら、仕事を進める自主的な姿勢が必要だと痛感した。
当時の主な業務は、既存の超電導体の一部を別の元素で置換し、さらに高温で超電導を示す物質を探索することだった。ある元素を用いた際に、超電導らしき兆候が認められたものの、決定的な証拠が掴めず、行き詰まっていたときに、継続か、中止か、の判断をせまられたことがあった。私は一担当者にすぎなかったが、行き詰まってはいたものの兆候があったので、自分の意志で継続を願い出、幸いやり遂げることができた。
一担当者であれ、自主的な姿勢が認められたことで自信につながった。
また、超電導の開発においては、実用化のためのプロセス開発にも従事した。製造工程条件確立のための実験においては、学生の時に学んだ実験の進め方、条件決めなどの、基本的な考え方が非常に役立った。
1994年には、結婚を機に、分析サービスと分析技術開発を担当する「特性評価センター」に異動し現在に至っている。当センターでは、素材の組成や、組織観察を始めとし、事業の多角化と共に幅広い材料を対象に、種々の分析技術の開発と問題解決を行っている。単なる分析だけでなく、工場プロセスの最適化や生産性向上と言った一歩踏み込んでの支援を行っているのが特徴である。ここでは主に溶液化学分析を担当しているが、直接、社外の客とやりとりすることもあり、自社の技術力を確認し、またレベル向上を図ることができて、やりがいを感じている。また、総合的な問題解決のためには、分析技術に関する知識だけでなく、種々の自社製品に関する知識も必要であり、学生時代の研究中心とは別の、低コスト且つ独創的なモノ作りや製品についての興味が、現在徐々に湧いてきた。

最後に副題の−女性をめぐる環境について−に関して、次のように述べた。
入社した1987年は、男女機会均等法が施行された直後であり、会社側も自分たち女性側も戸惑うことが多かったが、徐々に社内制度も充実し、女性の活躍も多くなってきている。入社したころ自分は、男女関係なく、同じ待遇で、同じように働くことが当然だと思っていたし、それが可能だと思っていた。しかし、実際には、家事や育児の担い手は女性、という従来の認識は変化しておらず、男性は仕事、女性は仕事、家庭、育児、と女性の負担ばかりが多くなっているのが現実である。会社での仕事だけでなく、家庭や地域社会との関わりなどすべてを含めて、男女均等であるべきだと感じている。均等法は、決して女性だけの問題ではなく、男性の働き方にも関わるものである。

在学生と卒業生との集いNo.5 2001年5月17日開催


『企業の技術開発に取り組んで −女性企業人の歩み−』
 桑名好恵氏  

<略歴>
1975年 奈良女子大学家政学部食物学科卒業
     (財)日本食品分析センター大阪支所 入所 1977年まで勤務
1981年 関西ルナ(株)研究開発部入社(非常勤)
     ・乳酸菌関連の研究に携わる
1990年 フジッコ(株)技術開発部技術開発課 入社 現在に至る
     ・新規納豆菌の研究 ・昆布ミネラルの応用研究
     ・ナタデココの研究応用商品開発
     ・大豆イソフラボンの応用研究  などに携わる

<講演要旨>
演者 桑名好恵氏は、現在、フジッコ株式会社技術開発部に所属し、課長と言う重責にあって多忙な日々をこなしておられるが、ここに至るまでの道のりは、決して平坦なものではなかったことが、話の端々で伺えた。それゆえ、自分の来し方を語られることは、聞き手に対して女性の生き方の一つのいいお手本を示して下さることであり、説得力のある、しかも示唆に富んだお話であった。講演要旨は以下の通りである。

はじめにフジッコ(株)がどのような視点で商品を製造・販売しているか、その中で技術開発部は、どういう役割を果たしているか、また、多くの若い研究スタッフがどのように商品の技術開発に取り組んでいるかなどについてVTRとOHPの映像で手短に紹介された。

1975年(昭和50年)奈良女子大学家政学部食物学科を卒業し、(財)日本食品分析センターに入社し、食品の分析の仕事をしていたが、仕事に物足りなさも感じていたので、結婚紙、出産を機に2年間勤めた会社を辞めた。育児と家事に関わっていたが、大学時代の先生の紹介で短大の実験助手(非常勤)として再び勤めだした。1981年からは関西ルナ(株)の研究開発部に非常勤で勤め、ここで偶然乳酸菌とビフィズス菌について研究をはじめた。これらの菌の研究は興味深く楽しかった。この会社で非常勤のポストでありながら、環境科学研究所で菌の脂肪融合について勉強する機会が与えられた。さらに、そこでフジッコ(株)へ入社の勧誘があり、技術開発部技術開発課に採用された。
フジッコ(株)では、新規納豆菌やナタデココ生産菌の研究、また、大豆中の有効成分イソフラボンを使用した応用食品の開発を手がけ、現在技術開発二課の課長職に就任している。フジッコ(株)の女性社員の多くは、結婚や出産を機に退職する場合が多いため、女性の登用はまだ少なく、課長職は私だけである。
現在は半年に1回の割合で、技術的に差別された新製品を上市する事を目標としている。職務としてはこれらの他に入社試験の面接などにも携わっている。
現在このような立場似合って活躍できることは大変うれしいことである。そこで女性が企業人として精一杯活躍するのには、どのようなことに心がければ良いかということを自分の経験を通してまとめてみた。
1.自分の置かれた場所で、与えられた仕事に対し、いつも精一杯に一生懸命取り組むこと。その姿勢は誰かが必ず見ていて評価してくれる。女性は家庭があり、子供を育てることなどで社会人としてハンディキャップはあるが、一生懸命仕事をし、会社にとって必要な人材であれば必ず正当に評価されるものである。
2.困ったことは1人で背負わないで、他人に相談すること。
3.仕事に対しては必ず成功するという強い意志を持って当たること。そうすれば必ず目的は達成する。とはいえ、短絡的にならないで気長に広い許容範囲を持って仕事に当たるといいのではないか。
4.家事は家族みんなに協力してもらうこと。強い意志を持って事に当たれば、必ず協力は得られるものである。
5.気分をリフレッシュすることは、仕事を長続きさせる秘訣である。
6.研究・開発のためには、知らなかったこともやらなければならないことが多い。そのためには日常のポイントを得た注意力と思考が大切である。

懇談会
講演内容と関連した質問、関連のない質問など、和やかなうちに沢山の話題がでた。

在学生と卒業生との集いNo.4 2001年10月26日


『ビジネスはおもしろい−起業のススメ、ビジネスのススメ−』
 上野祐子氏  

<略歴>
1977年 奈良女子大学文学部教育学科卒業
1979年 奈良女子大学文学研究科修士課程修了
1981年 マーケティング企画会社を設立
1990年 株式会社 マーケティング・ダイナミクス研究所設立 代表取締役に就任

<講演要旨>
大学院を修了した昭和54年は、就職難の時代でした。専攻した心理学で研究職に就きたかったのですが、オーバーマスター、オーバードクターの時期でそれも難しかったのです。いくつか会社の面接も受けましたが、当時は総合職などはなく、仕事は事務職か会社秘書ぐらい、研究職も難しく、悶々とした日々のなかで非常勤講師などで生活しながら、土方の3年間と自分で言っているやりたいこと探し3年、入りたい会社がないのなら自分でかい者を作ろうと、芸大を出た女性と二人でデザイン企画会社を設立しました。そこで設計事務所のコンサルティングの仕事を受けて、レストランや喫茶店のコンセプトづくりから店名やロゴマークのデザイン、メニュー、カタログ制作をはじめました。仕事は紹介に依りました。この業界は夜撃ち、朝がけ、徹夜は当たり前で、当時は奈良から通っていましたが、朝は5時20分の準急、帰りは上本町を11時40分の終電車で、365日のうちに2週間の休みが取れたかどうか、そういう生活を続けているうちに、だんだんとお客も増え、仕事のレベルも受注額も増加し、どんな業界・企業に企画・デザイン・調査のニーズがあるか、やれる仕事がどこにあるかもわかるようになりました。
会社の名前は「ママ企画」、誰でもがすぐ覚え、興味を持ってくれるようにということで、1年目くらいで本格的に企画・デザイン事務所を開くことになって、ワールドデザインコーポレーションとし、それから10年位して今の名前に替えました。私は、この仕事を3年間死ぬほどやってだめならやめて、他の仕事にチャレンジしようと思っていましたが、3年経つ頃には仕事が忙しくなり、社員も植えました。私たちは段階的に夢を持っていました。まず目先の目標として5年目で電通、博報堂と対等にやれるレベルになる、将来的にはこの業界で一人前になろうという大きな目標を向けて、自分の生きた証し、やったという感激を人生のなかに埋め込んで、人生を終わりたい、達成の喜びを味わい続けたいと、思い続けてきました。
電通、博報堂との仕事を始めたことで、他社の企画書を参照して生きた企画書作りのノウハウを会得しましたが、その間、多くの人に教えられ、自らも全く違う分野のことをためらわずに勉強をし続けました。当時、流通業うあメーカーの仕事を多く手掛けていましたが、やがて蓄積した商品知識やマーケティング手法を活かしてCI(コミュニティ・アイデンティティ)や経営分析、イベントもダイレクトに手掛けて、会社のレベルはステップアップしてゆきました。

(ここで持参された会社の資料により、これまでの業務のいくつかを紹介された)
広告代理店との仕事をしている間にマーケティング調査の仕事が、直接企業から入るようになりました。例えば、携帯電話の端末を大量に企業向けに売るには・・・・といったマーケティング戦略です。
バブルが崩壊したとき私たちの仕事は半減するか、なくなると思い、生き残るために営業先を企業から国や自治体にドラスティックにかえて全国にとび出しました。国や自治体の地域振興計画、地域の観光ビジョンや特産品作りへの参画です。町制百周年を2年後に迎える青森県のPRのお手伝いをしていますが、そこで思ったことは、地域の人々の立場になり、ことばを覚え、リスクを恐れずに飛び込むことが第一だということです。

(このあとOHPにより新しいビジネスシステムについて説明された)
最後に期待を込めて皆さんに伝えたいことは、
1.自分の力を世の中で試してみたいと言う気持ちをわすれないように。
2.あきらめないと言う根性が必要。常にやり続けること。やめないこと。
3.人に興味をもつ。人とどういう人間関係を築くかが大切。まずは自分が変わること。
4.求められる以上のものを返すこと。自分の力を集中し世の中の与えてくれた課題に対してその成果のハードル、つまり自分のハードルを高めに設定すること。
5.若いエネルギーを悶々と内に持ち続けないで外に出すこと。積極的に見る・聞くことで世界が開けてくる。人生は一度きり、思い切って生きること。
能力の限りを社会にぶつけて下さい。そんな人を社会は待っています。

<懇談会>
ユーモアを交えた、バイタリティーのある、エネルギーのほとばしり出るようなお話に、在学生も卒業生もすっかり啓発された。会場からは、会社の設立の仕方から、マーケティングにおける企画書の作成について、また自分の歩むべき道の指針を見つけようとするような質問、更にはプライベートな時間の過ごし方から服装のセンスに至るまで、多方面の質問が出され、意義あるひとときであった。

在学生と卒業生との集いNo.3 2001年6月7日開催


『私とジェンダーの歴史学』
 姫岡とし子氏  

<略歴>
  奈良女子大学理学部化学科卒
  フランクフルト大学歴史学部マギスター(修士課程)修了
  奈良女子大学人間文化研究科博士課程比較文化学専攻修了(文学博士)
  同志社大学、立命館大学、奈良女子大学の非常勤講師を経て、現在 立命館大学国際関係学部教授
  その間、ドイツエッセン文化研究所、ベルリン自由大学附属比較社会史研究所に留学、ドイツ・ボーフム大学社会科学部で客員教授として研究・教育活動を行った
  著書「統一ドイツと女たち」「近代ドイツの母性主義フェミニズム」ほか

<講演要旨>
演者は、暗中模索しながらも、自分が目指しているライフワークのテーマをひたすら求めて、「ジェンダーの歴史学の研究」にたどり着き、現在はこの研究の世界的な先駆者として第一線で活躍している。本講演では、主として演者が自分のテーマに出会うまでの軌跡について話された。
自分が奈良女子大学理学部化学科の学生として在籍した時代は、70年安保闘争の激しい時であった。化学科に入学した理由は、自分の将来歩むべき道には専業主婦という選択肢はなく、生涯にわたって職業を持つことを考えていたからである。

奈良女子大学に入って得たことの一つは、学生は殆どみんな生涯にわたる職業に就くことを考えていて、誰もが専門科目の勉強だけでなく、他のことについてもよく勉強した。自分もその中にあって、いろいろないろいろなことを熱心に勉強したことである。しかし、自分は化学科にいながら、化学の勉強にはそれほど情熱が湧かないことも感じた。いまひとつは、女性もイニシアティブをとり、リーダシップを採ることが出来るのだと言うことを知ったことだ。高校は男女共学であったので、自治会活動において、男子学生がイニシアティブをとりリーダーとなる者という感があって、リーダーシップを取れると思われる女子学生がいても、女子学生にはそのようなことは出来ないもとそされていた。しかし、、奈良女ではリーダーシップのある人が沢山にて、女性ばかりで何もかも運営できた。このことは女性もイニシアティブをとり、リーダーシップを発揮することが出来るという自信につながった。これは大きな収穫であった。

当時、化学科の卒業生は企業の研究所に就職する人が多かった。奈良女の出身者は優秀なアシスタントとして受け入れられたが、イニシアティブの取れるポストには就けなかった。また、それほど情熱を傾けることの出来なかった化学に対し、「化学科卒」という肩書きで一生暮らしていくことは自分にとっては好ましいことではないと考えたので、卒業後、今で言うフリーターの生活をはじめた。そんな中でヨーロッパ旅行をし、ドイツに立ち寄った。そのときドイツで化学以外の分野で一生涯の研究テーマを見つけようと言う考えに至った。そのためにまず語学力を身につけ、フランクフルト大学修士課程に進学することに決めた。そこで選んだ専攻は社会科学系列で、歴史学部に入学する事が出来た。

このとき語学の勉強をかねて、べーべル著「婦人論」を読み非常に感銘を受けた。幸いなことにその年(1975年)からフランクフルト大学の歴史学部には「女性史」の講義が始まった。また、セミナーもスタートした。セミナーには100名ほどの女性が参加し、活発な話し合いがもたれ、実り多いものであった。当時、ドイツでは、まだ「女性学」の研究は全く行われていなかったし、フランクフルト大学の歴史学部には「女性史」を指導する先生もいなかった。当時、フェミニズムの研究は世界的にみても、アメリカ以外の国では殆ど行われていなかった。また、文献も殆どない状態であったが、そんな中で、自分は「歴史の中で女性がどのような扱いをされてきたか、どのような役割を果たしてきたか」をテーマに「ドイツ女性史」について研究し修士論文を書いた。

フランクフルト大学の修士課程修了後(1980年)帰国し、奈良女子大学人間文化研究科博士課程に入学して、引き続き「ドイツの女性史」を研究した。当時日本で女性史を研究している人はいなかったが、このころになって自分の視点がようやく固まってきた。(日本で女性学の研究は1980年代半ばに、上野千鶴子氏らによって「女性学」として始まり、その後、「女性学」は「ジェンダー学」として取り上げられるようになった。)

現在は男はこうあるべきで、女はこうあるべきだとか、こう生きるべきだとか言うような男性と女性のあり方や、生き方に線引きがなされたのは歴史的にどのような背景で定義づけられてきた結果なのかを、過去から現在の流れを知ることで明らかにしていこうとしている。これはこれからの男女共同参画社会にあって、女性のあり方を検討していく上でも必要な事ではないかと考えている。

<懇談会>
講演に対する熱心な質疑応答が続き、フロアーでも様々な意見交換があった。

Q.1980年頃には女性学の文献としてはどのようなものが出版されていたのですか
A.1980年代は、ほとんどなかった。当時女性学の研究がなされていた国としてはアメリカで、その他の国では全く行われていなかったので、文献は無かった。

Q.女性学で論文を書くのは当時タブーとされていたと上野千鶴子氏が書いていたが、それは本当のことですか。
A.本当だったと思います。1980年代中頃は、「なぜ女性学の研究が必要なのか」と言う考えがあったからでしょう。

Q.フランクフルト大学の女性学セミナーには男性も参加していたのですか。
A.していなかった。むしろ男性の参加を断った。その理由としては、男性に議論のイニシアティブをとられたりすると、女性の発言に制約が生じる事も考えられたし、また、女性だけの方が活発に発言出来ると考えたから。実際、議論は活発に交わされたし、非常に実りのあるものでした。

Q.歴史学では、女性がマイナーであった理由はなぜですか
A.歴史的に見て、男性が社会を動かしていたからでしょう。だから、歴史学は男性の視点で行われてきたのではないかと思われます。

Q.ジェンダー学を研究することは、女子大学のあり方について考えることにつながるものではないでしょうか。
A.当然つながると思います。女子大は女子大として存続する方が発展するのではないかと思います。男女共学にすると女性は圧しつぶされてしまう感がします。

Q.男女の雇用が均等に扱われるようになったら、その次の問題は何でしょうか。
A.例えば、今の職場の勤務形態は男性の勤務状況をもとにして作られたもので、それがノーマルなものとされていますが、それが女性にとって勤務しやすい形態とは限りません。女性が多く参画する社会になると、女性がつとめやすい環境に変えていくように考えなくてはならないでしょう。かって女性は、女だから子供を産み、母性になることで母性は生き方に制約を受けてきました。永い年月、社会は母性のありかたをネガティブに見てきました。しかし、今は母性のあり方をポジティブに受け止め、男女共同参画社会の確立を目指す必要があるのではないでしょうか。

在学生と卒業生との集いNo.2 2001年1月26日


『サルがいて、ヒトがいて −サル学と私−』
 広谷浩子氏  

<略歴>
  奈良女子大学理学部生物学科卒
  京都大学大学院理学研究科修了 理学博士
  カメルーンやエチオピアで長期野外調査に携わる
  財団法人日本モンキーセンター研究員をへて
  現在 神奈川県立生命の星・地球博物館、主任学芸員

<講演要旨>
講演者は自らの歩んできた道を語る中で、学術・研究に取り組む基本的な姿勢を、さらには女性の生き方について一つの指針を示唆した。講演の要旨は以下のようである。  講演者が奈良女子大学在学中、非常勤講師として来られた伊谷純一郎京都大学教授の講義を聴き、「サル学」に興味を持つようになった。奈良女子大学卒業後、京都大学大学院に進学し、霊長類研究所の河合雅雄先生の指導のもとで、サルの行動生態の一端を明らかにすることを目的とした「サル学」の研究をはじめた。

 修士課程では、宮崎県神島のニホンザルの行動をただひたすら眺め、観察することで個体識別を会得し、メスザルが示す攻撃行動に的を絞って観察研究した。博士課程では、西アフリカのカメルーンで、熱帯多雨林に生息するサルの一種・マンドリルの生態行動を調べた。マンドリルは滅多にその姿を現さないサルであるが、このサルたちはお互いのコミュニケーションのために音声を発するので、この音声をもとにしてサルの社会構造を調査研究した。

 学位取得後は、日本モンキーセンターの研究員としてサルの行動の研究を続け、その後神奈川県立生命の星・地球博物館の設立に参画し、引き続いてその博物館の学芸員になる。主任学芸員になった現在も、箱根の山に生息するニホンザルの観察研究を行い、それに関して特別展を開催するなど意欲的に活動している。

 学芸員に着任して、経済的に安定するようになったが、大学に進学してからの長きに亘って、両親の理解のもとに経済的援助を受けられたことは大変ありがたかった。またその間、奈良女子大学時代のクラスメイトからの励ましは大変ありがたく、学芸員になってからも、活動にこのクラスメイトが頼りがいのある力強い相談相手となって、何かと支援してくれるので、友達の好意(ありがたさ)に感謝している。一方、家庭では妻として、2児の母としての立場にあり、家庭と職場、更に研究とそれぞれの役割に懸命に取り組んでいる。

<懇談会>
 出席者の自己紹介を主として、講演についての感想や質問が述べられた。また、在学生は、学芸員という職業に興味を示していた。
 従来の「サル学」の研究は、オスの攻撃行動やなわばりなどサル社会のタテ関係について研究がなされている。これらの多くは男性研究者の視点でとらえられたものである。近年、「サル学」の研究に女性の研究者が増えてきており、女性研究者は子育てや、サル社会のヨコのつながりなどに視点をおくなど、男性とは異なったところに研究の焦点を当てており「サル学」の研究にとって好ましいことである、等が話題となり、今後更に広い分野で女性が活躍することを期待して閉会した。